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zoom RSS 宮柊二『山西省』 - 「帯剣の手入れをなしつ血の曇落ちねど告ぐべきことにもあらず」

<<   作成日時 : 2009/05/07 18:33   >>

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「装甲車に肉薄し来る敵兵の叫びの中に若き声あり」

「巧みつつ通匪しありと年老いし葡人斉神父を村の者告ぐ」

「帯剣の手入れをなしつ血の曇落ちねど告ぐべきことにもあらず」


 これらは歌人宮柊二の歌集『山西省』からとったものである。

 宮は新潟県魚沼、堀の内の書店の長男として生れた。

 1939年二十八歳で徴兵され、一兵卒として1943年まで中国華北を転戦した。

 その遅い徴兵を姉から知らされたときの歌がある。長岡駅で姉に電話したとき伝えられたのである。


 「遠くより伝はりきつつふるさとの夜の電話に低き姉の声」


 そして故郷を離れ、幹部候補生としてではなく一兵士として前線に赴くことを決意して、彼は中国に送られた。

 その拠点となったのは山西省の東塞鎮であった。宮は戦後この歌集を出版したときに執筆した「続後記」でこの地について以下のように書いている。

 「其処を、部落民は土地も部落も含めて分水嶺と呼んだ。

 海抜約二千五百メートルから三千メートル、此処を発して北へ流れを起こすものは恢河、

 南へ向って落ちてゆく水は汾河に入る。恢河にそって五里を下れば寧武があり、南へ三里汾河河岸に至れば

 東塞陳がある。寧武には大隊本部があり、東塞鎮にはその大隊に所属する一箇中隊があった。」

 宮はこの東塞陳の中隊に補充兵の一人として配属されたのである。


 そしてこの地は1940年8月20日朱徳総司令のもと百団大戦が開始されると戦場の真ん中となった。

 冒頭にあげた歌はその期間に詠まれたと思われるものである。


 さらにその後中原会戦が戦われ、その折には以下のような歌が詠まれた。

「戦ゆ生きて帰れりあな羞し言葉少なに我は居りつつ」


 そして中国側への反撃が日本軍によって展開される。晋察冀邊区治安粛清作戦、いわゆる三光作戦である。民衆の中に拠点を持っている中国共産党=八路軍に打撃を与えるため、極めて過酷な作戦が展開された。

 以下はそのさなかに詠われた歌である。

「一万尺の山の頂に掘りなして掩蔽壕と防空壕とがありき」

「左前頸部左顳顬部穿透性貫通銃創と既に意識なき君がこと誌す」

「ありありと眼鏡に映る岩の間に迫撃砲弾を運ぶ敵の兵」

「敵襲のあらぬ夜はなし五日に及べ月繊くなりぬ」

「弾幕に五名の兵が死にゆきたり朝あけて低し青樹の耕地」


 先ほど引用した「後後記」に八路軍兵士・共産党員に関する以下のような記述がある。日米開戦の後であり、おそらく治安粛清作戦期間中と推測される。

 「髪の中に秘めた連絡報を発見されて捕らえられてきた二十歳くらいの女の密偵は、

 『私は中共軍の兵士です』とだけしか言わなかった。

 その短い言葉は詩のような美しさに張っていた。そしてその夜自ら死を選んでいった。

 炎昼の渇に堪え難いであらうと、既に人影を見ぬ農家の庭から梨をもいで捕虜に与えようとしたが、

 『私達は老百姓の作物を無断で無償でもらっては不可ぬことになってゐる』と答えて見向くことをしなかったとき、

 その青年は静かな眼をしていた。」

 「中国ははっきりした将来の自信の上に立って、犠牲を見守り見送ってゐた。」

 この文章が書かれたのは1949年2月のことである。

 私達はどうだったのだろうか。そして今はどうなのだろうか。

 連休中偶然訪れた記念館で手に入れた歌集をよみ、感じたことをつづりました。

 

(宮柊二 『山西省』 短歌新聞社文庫 2007年5月第三刷)

宮柊二記念館 新潟県魚沼市堀之内117-6 025-794-3800 午前10時〜午後4時 毎週月曜日休館

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